わたしが約40年前に学んだ肥後狼犬のおはなし。
ネガはありますが、焼き増しした写真はありません。
その頃熊本県にいた私は、もともと北海道犬、日本犬の愛好家でしたので、当然の流れとして、当時熊本県にいた肥後狼犬を見たくて、肥後狼犬保存会にアポイントをとり、犬をたくさん見て回りました。
40年前の肥後狼犬の特徴は、毛は短い、後頭部の出た、活力のある犬で、眼の色は黄色(この点は嫌い)、毛色は赤、黒差し赤、濃いベタ赤、黄色、黒差し黄色、斑、すべて裏白は無し、大きさは小ぶりから大きめ、とバラエティーに富んでいました。
また日本犬的な視点からすると、リップは緩く、口吻の絞りに欠ける、欠点があります。
飛節の角度が深く、独特な後脚をしている、等です。
統一された意志(ブリーダーの)のもとに作出された、固定されたタイプでした。(どの犬もみな同じ特徴がある。)
日本犬中型としての悍威はスゴイもので、猪の実猟に使われている現役犬もかなりいて、「シシには肥後が一番」と言われてました。
反面人に対する圧力はぜんぜんなく、静かで落ち着いていて、おとなしい、とて飼いやすい犬です。
保存会の人は猫の様に柔軟性があり、高い塀も楽に登ると自慢してました。
残念なことに小山克巳先生はなくなられており、会の集まりで、カセットテープの肉声を聞きました。
先生が書かれた本とテープあわせて、覚えている主な内容は、戦後人吉地方に残っていた雌に(雄は絶滅)三河犬の三四郎(雄)(斑犬)を交配して、肥後狼犬の元を作ったということです。
また三四郎を種犬に選らばれた理由は、当時は両親不詳の犬ばかりで、家系のハッキリしてる犬は、先生が知る限りでは、三河犬の三四郎ぐらいしかいなかったから、だそうです。
選抜育種の基準は、背中の毛を抜き取り、スンプ法を用い、サンプルを顕微鏡で見て、狼の毛の紋鱗(魚鱗状紋鱗)により近い毛の紋鱗を持つ犬を残していくというものです。先生の見解では犬はノコギリ状紋鱗という事です。
これには異論は多くありましたが、私は育種家としての先生の、探求心と情熱に敬意を持ち続けています。
また保存会の方のおはなしですと、中央の役人が、先生の犬を天然記念物にするかどうか、審査に来た際に犬の「脚さばき」を見て、これは本物の日本犬中型だと驚いたそうですが、三河犬の三四郎が入っている為、天然記念物にしなかったそうです。後にこの審査しに来た役人が、先生に謝りの手紙をよこしたとの事です。
天然記念物というお題が先にあるため、本物の日本産犬ではあるが、よくある犬の純血主義(血統書信者)の考えからでしょうか?、天然記念物(日本固有の在来種)にはしなかったのかなと思います。日本犬界の極度のチャウチャウの血液、影響(三河犬の)嫌い、等も原因でしょうね。
先生は「日本犬は強くなければならない」とよく言われていたそうです。
会の方から聞いたエピソードとして、若い犬を持って散歩していた、先生が道で土佐闘犬と鉢合わせになり、相手に犬同士の戦いを挑まれたそうですが、先生は「あと何年か先にやろう」と言って道を譲りました。
その後また道で鉢合わせになり、今度は戦わせました、その際先生の犬は素早く後に回り込み土佐闘犬の後脚に、噛み付く事で、やっつけ、土佐闘犬の飼い主を退散させたそうです。
この犬はおそらく先生繁殖所有の「金峰狼狗」。
他にもイロイロおはなしは聞きましたが、これらが特に印象にのこりました。
肥後狼犬保存会の方々には大変お世話になり、展覧会など多くの肥後狼犬に触れる年月を過ごす事が出来ました。
特に益城町の藤山審査員(雌犬しか飼わないという主義の方)にはとても親切にしてもらいました。
その後私が熊本県を離れる際に、斑の肥後狼犬♀を連れて帰りましたが、当時私の地元で、大流行していたパルボにより、あっけなく亡くしてしまいました。
肥後狼犬の繁殖には、ご縁がなかったと、今は思っています。
しかし小山克巳先生のブリーダー魂だけは、持って帰る事が出来ました。
ここに日本犬の枠を越えた、本物の育種家であられた、小山克巳先生と肥後狼犬のおはなしを紹介しました。
先生の魂(肥後狼犬)は今も私の中にいきづいて、何も変わることはありません。


2024年10月20日生まれ

毛色 赤
PR モロッサー系ミックス=自家系犬
掲載日 2025/03/02
価格 1,130,000 円 (税込)
福田貴哉ブリーダー
ごあいさつ
抗う魂!Resistant spirit
血統書:UBBR JDC
犬種に学び犬種が作られる前のモロッサー系犬を理想としています!
尊敬する育種家:熊本県小山克己先生(故人)→肥後狼犬を作った人
当犬舎の海外ファン:UBBR代表のアリカーンさん→イギリスロンドン
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